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東京地方裁判所 昭和61年(ワ)2259号 判決

主文

一  被告東京都は、原告に対し、金三〇万円及びこれに対する昭和六〇年一〇月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告の被告東京都に対するその余に請求及び被告深澤泰に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告に生じた費用の六分の五、被告東京都に生じた費用の三分の二及び被告深澤泰に生じた費用を原告の負担とし、原告に生じたその余の費用及び被告東京都に生じたその余の費用を被告東京都の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、各自金九一万円及びこれに対する昭和六〇年一〇月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は、原告の負担とする。

3  (被告東京都)

担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告は昭和六〇年一〇月当時、東京都立京橋高等学校(以下「京橋高校」という。)定時制第四学年に在籍し、生徒会会長をしていた者である。

被告東京都は、地方自治法二条三項五号に基づき京橋高校を設置・管理し、これに関する教育事務を行なう地方公共団体である。

被告深澤泰(以下「被告深澤」という。)は、昭和六〇年一〇月当時、京橋高校定時制の保健体育を担当していた教員(東京都地方公務員)であり、原告の所属した第四学年の学級担任をしていた者である。

2  被告深澤の不法行為

(一) 京橋高校定時制では、各学級に学級日誌があり、生徒が交代で毎日の感想等を記し、担任教諭がこれに対する論評を書くことになっていた。

昭和六〇年九月ころ、京橋高校定時制には女子の使用する更衣室がなかったので、原告は生徒会会長として女子更衣室の設置を求めて学校側と交渉を行なっていたところ、被告深澤は、学級日誌の同月一八日の欄にその日に行なわれた更衣室設置問題の交渉の様子について、原告を揶揄するような不真面目な論評を記していた。

(二) 原告は、昭和六〇年一〇月三〇日午後七時ころ、京橋高校内の教室で学級日誌を読んでいた際右の論評を見付け、学級日誌の該当箇所を持参し定時制職員室に赴き、おりから同所に戻ってきた被告深澤に抗議したところ、突然被告深澤が怒鳴ってきたため、両者は口論を始め、更に学級日誌の取合いを始めた。

(三) そうしているうちに、被告深澤は原告に対し、左側頭部の左耳あたりに一回頭突きを入れ、続けて右手挙で顔面左口唇部あたりを一回殴打し、これによって原告に対し、二~三回の加療を要する急性歯牙支持組織炎及び上唇左側擦過傷の傷害を負わせた。

3  損害

(一) 慰藉料

本件不法行為は、相互の信頼を基調とすべき教育現場において、教師たる立場にある者が、その生徒に対し、感情のおもむくままに暴力を振るったというものであるところ、被告深澤は本件不法行為後も反省の色もなく教育者として誠実な対応をしない。原告は、本件不法行為により、大きな身体的及び精神的苦痛を受けたものであり、この苦痛を癒す慰藉料としては六〇万円が相当である。

(二) 弁護士費用

被告らは本件について誠意のある態度を示さないので、原告はやむなく本訴の提起及び追行を原告代理人両名に委任し、その費用・報酬として三一万円を支払うことを約した。

4  よって、原告は、被告東京都に対しては国家賠償法一条に基づき、被告深澤に対しては民法七〇九条に基づき、損害賠償として各自金九一万円及びこれに対する本件不法行為の日の後である昭和六〇年一〇月三一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

(被告東京都)

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の事実について

(一) (一)のうち、学級日誌に被告深澤の記した所見が原告を揶揄するような不真面目なものであるという点を否認し、その余は認める。

右所見は、「見城が、校長、教頭相手に女子更衣室の件について談判していました(見てて面白かったけど)but、校舎の改築って、いろいろと面倒な問題が山ほどあって、今スグって訳にはいかないんだよネ。不便だろうけど、がまんしてやってください。」というものであり、生徒との親近感を深めるために意識的に友達口調で記入されてはいるが、決して原告を揶揄するような不真面目なものではない。

(二) (二)のうち、原告が昭和六〇年一〇月三〇日午後七時ころ、学級日誌同年九月一八日欄の紙片を持参し定時制職員室に被告深澤に抗議するために赴き口論となったことは認め、原告が学級日誌中に同欄中にある被告深澤の論評を見付けた経緯は知らない。その余は否認する。

原告の抗議に対し、被告深澤は冷静に対応しようと努め学級日誌についても原告に何度もその返還を求めたが、原告がこれを拒んだため結果的に取合いの形になったものである。

(三) (三)のうち、被告深澤の右側頭部が原告の左側頭部と接触したこと、被告深澤の軽く握ったこぶしが原告の頬に当たったこと、その結果原告の唇の内側から出血し、その後原告を診察した訴外聖路加国際病院の医師が原告主張のような内容の診断をしたことは認め、その余は否認する。

3 請求原因3は争う。

4 同4は争う。

(被告深澤)

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の事実について

(一) (一)のうち、京橋高校定時制では、各学級に学級日誌があり、生徒が交代で毎日の授業内容や感想等を書き、これに対して、担任教諭が所見を記入することが行なわれていたこと、原告が生徒会長就任後女子更衣室の設置問題について学校側と交渉をしていたことは認めるが、その余は否認する。

(二) (二)のうち、原告が昭和六〇年一〇月三〇日午後七時ころ、学級日誌の同年九月一八日欄の紙片を手にして、定時制職員室にやって来たこと、間もなく被告深澤が同所に戻って来たことは認めるが、原告が学級日誌に被告深澤が書いた論評を見付けた経緯は知らない。その余は否認する。

(三) (三)は否認する。

3 請求原因3は争う。

4 同4は争う。

三  被告らの主張

(被告東京都)

1 原告の行状、態度について

原告は、平素の学習態度に問題が多い生徒であった。右問題点としては、教員が話しかけてもほとんど返事をしないこと、教員に対し名前を呼び捨てにするなど言葉使いが悪いこと、校舎内では上履きの使用が定められていたにもかかわらず革靴のままで教室に出入りしたこと、校内では喫煙が禁止されていたにもかかわらずこれに違反したこと、授業中に新聞等を広げて読んだりラジオを聞いたりしたこと、体育実技の授業を届出をしないで見学する回数が多かったことなどを挙げることができる。

そのため、他の生徒は原告に対し強く反発しており、昭和六〇年一〇月一七日の体育の時間には、三、四年生の男子生徒数人が、無断見学していた原告に対し、態度がひどすぎるとして制裁を加えようとしたが、被告深澤が止めに入り事なきをえたことがあった。

2 学級日誌について

被告深澤は生徒との心の交流に役立つものとして学級日誌を重視し、生徒がのびのびと書くことを尊重し、自らが所見を記入するにあたっても意識的に友達口調で書くなど親近感を持たせる工夫をしていた。そのため、被告深澤が担任した学級の大方の生徒は、学級日誌を歓迎し、愛着を持っていた。

ところが、原告は学級日誌の意義を認めず、記入を拒否することを同級生に呼びかけたり、被告深澤を攻撃する内容を記入するなどして、他の生徒の反感をかっていた。

3 事件当時の状況

原告は、当日午後七時ころ、担当教員に無断で授業を抜け出して定時制職員室に赴き、被告深澤に対し学級日誌の紙片を突き付け、「おい、これはどういう意味だ。」「がまんしろとは何だ。」と怒鳴りつけてきた。被告深澤は、文章を読みあげ趣旨を説明したが、原告がなおも興奮して「てめえは前からがまんしろ、がまんしろと言って、抑えつけるばかりじゃないか。」と言ったり、突然話を変えて「おまえは会議室の鍵を持ち歩いたじゃないか。」と言い出したので(なお、学校側は、前年には当面全日制会議室を女子更衣室として使用することを認めていたが、被告深澤が右会議室の鍵を持ち歩くなどしてその使用を困難にした事実はなかった。)、「そのような事実はない。」と答えたうえ、原告に日誌を返すように言った。しかし、原告はこれを聞き入れず、両手で日誌の紙片をつかんで握りしめた。

被告深澤は、原告の右態度を見て、日誌の紙片が破棄されることになれば、学級日誌に愛着を持ち、原告の常日頃の態度に強く反感を抱いている学級の他の生徒と原告との間に不測の事態が生じることが十分にあると考え、原告に何度も学級日誌を返すように求めたが、原告が更に日誌を胸元に引き寄せ一層強く握りしめたため、日誌の紙片が破れ始めた。

被告深澤は、これ以上の破損を避けるために日誌を取り戻そうとして、とっさに、座っていた原告に対し、腰を屈め上体を前に傾けながら両手を前に伸ばしたが、原告も同時に前屈みとなって日誌を一層強く胸元に抱えるようにしたため、偶然被告深澤の右側頭部が原告の左側頭部と接触した。

その後も原告が両手で右紙片を強く握りしめて破損が更に拡大しそうになったので、被告深澤は原告の気勢をそいで日誌を取り戻すよりほかにはないと考え、原告の耳、唇を傷つけないよう平手で軽く頬をたたく心算であったところ、たまたまこぶしを軽く握った状態であったため、右こぶしが原告の頬に当たる結果となった。

4 その後の経緯

(一) 被告深澤は、聖路加国際病院の診察に要した診療費、同病院への交通費の全額を負担した。

(二) 被告深澤は、昭和六〇年一一月七日、原告の面前で「今回の行為については申し訳なく思っており、あやまりたい。申し訳なかった。」と述べて謝罪した。原告は、その二時間後、京橋高校定時制の教頭に対し、「さっきの陳謝は認める。」と述べた。

5 まとめ

以上のとおり、被告深澤の本件行為は原告の執拗かつ悪質な挑発によって惹起されたものであり、原告が学級日誌を破棄することにでもなれば原告と学級の他の生徒との間に不測の事態が生じる可能性が十分にあり、被告深澤はこれを避けるためやむなく本件行為に及んだものであり、その程度及び結果はごく軽微なものであるばかりでなく既に被告深澤は誠実に陳謝の意を表し、原告もその謝罪を認め、原告の本件治療費も支払われており、なお賠償すべき責めはない。

(被告深澤)

1 公権力の行使にあたる公務員の職務行為に基づく損害については、地方公共団体が賠償の責めに任ずるのであって、職務の執行にあたった当該公務員たる被告深澤は、行政機関としての地位においても、個人としても、被害者たる原告に対し、損害賠償責任を負担するものではない。

2 被告東京都の主張のとおり。

四  被告らの主張に対する認否

(被告東京都の主張に対し)

1 被告東京都の主張1のうち、原告の学習態度に問題が多かったという点は争う。

原告が被告深澤に対し特定の時期から名前を呼び捨てにしたこと、原告が革靴のまま教室に出入りしたこと、校内で喫煙したことがあること、授業中に新聞等を読んだりラジオを聞いたりしたことがあること、体育実技に見学が多かったことは認めるが(ただし、従来場所を決めて喫煙は認められていたし、体育実技の見学に届出という特別な手続はなかった。)、当時京橋高校定時制は学校内が荒れた状態で授業が成立しないことが多く、右状況を考慮すれば、原告は全体として、勉強もきちんとやり、成績も良く、生徒会長になるほど真面目な生徒の部類に入る。

2 同2の事実のうち、被告深澤の学級日誌に対する考え方は知らない。その余は否認する。

3 同3の事実は大筋において否認する。

4 同4の事実について

(一) (一)は知らない。ただし、原告が教頭から診療費、交通費に相当する金額を受領したことはある。

(二) (二)のうち、被告深澤が昭和六〇年一一月七日、被告東京都主張のような趣旨の謝罪をしたことは認めるが、その正確な文言は知らない。その余は否認する。

5 同5は争う。

(被告深澤の主張に対し)

1 被告深澤の主張1は争う。

2 同2については、被告東京都の主張に対する認否のとおりである。

第三 証拠〈省略〉

理由

第一  被告東京都に対する請求について

一  争いがない事実

請求原因1、同2(一)(ただし、被告深澤の記した所見が原告を揶揄するような不真面目なものであるという点は除く。)の事実、同(二)の事実のうち、原告が昭和六〇年一〇月三〇日午後七時ころ、学級日誌同年九月一八日欄の紙片を持参し定時制職員室に被告深澤への抗議のために赴き、同人と口論となったことは当事者間に争いがない。また、これに引き続き原告と被告深澤とが右日誌の紙片を取り合う形となった際、被告深澤の右側頭部と原告の左側頭部が接触したこと及び被告深澤の右こぶしが原告の頬に当たったこと自体は被告らにおいても争わないところである。

また、被告東京都の主張1のうち、原告が被告深澤に対し特定の時期から名前を呼び捨てにしたこと、原告が革靴のまま教室に出入りしたこと、校内で喫煙したことがあること、授業中に新聞等を読んだりラジオを聞いたりしたことがあること及び体育実技に見学の多かったこと並びに被告深澤が昭和六〇年一一月七日、その正確な文言は別として原告に対し本件について謝罪をしたことはいずれも当事者間に争いがない。

二  本件事件の概要

右争いのない事実並びに〈証拠〉を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

1  原告は、昭和五八年五月、群馬県立沼田高等学校定時制から京橋高校定時制第二学年に転入学し、昭和六〇年四月以降最高学年である第四学年に在籍し、同月下旬には学校側の非公式な勧めを受けて定時制生徒会の会長に立候補し、信任投票を得て就任していた。しかし、平素学内で教員の指導を無視する態度を取るようなこともあり、一部の教員からは扱いにくい生徒であるとの印象を持たれていた。また、同校の生徒の中には原告の態度に反感を持っている者もいた。

なお、昭和六〇年一〇月当時、原告は満二四歳であった。

2  被告深澤は、昭和五七年四月から京橋高校定時制に勤務し、以後保健体育の科目と生徒指導の校務を担当し、昭和六〇年四月には原告が在籍する第四学年の学級担任となった。

同校では昭和六〇年度から学級日誌の制度が始まったが、被告深澤は、生徒の状況を把握するための手段としてこれを重視し、生徒の自発的な記載を促すように指導し、自らも積極的に寸評を記すようにしていた。右指導の結果、生徒たちの中には学級日誌を身近なものに感じる者もあり、女子生徒を中心としてこれに愛着を持っている者もあった。

3  原告が京橋高校に転入学したころ、同校には定時制専用の女子更衣室がなく、女子は体育実技に際しトイレ等を利用して適宜着替えをしていた。学校側は専用の女子更衣室ができるまでの暫定的措置として、昭和五九年には全日制の会議室を使用して定時制の女子が着替えをすることを認めていたが、利用に不便なこともあって同室は実際にはほとんど利用されなかった。原告は、生徒会長に就任後、定時制専用の女子更衣室を早期に設置するよう生徒会の名で要求し、昭和六〇年九月一八日には、定時制職員室において同校校長、教頭との間で右要求に関し数回目の話合いを行なった。被告深澤は、同室内にいてその様子を見聞していた感想を寸評にまとめ、学級日誌の同日付け適要欄に、「見城が、校長、教頭相手に女子更衣室の件について談判していました(見てて面白かったけど)but、校舎の改築って、いろいろと面倒な問題が山ほどあって、今スグって訳にはいかないんだよネ。不便だろうけど、がまんしてやってください。」と記した。被告深澤が右論評の前半に「面白かった」と記したのは、原告の話合いの態度が団体交渉に臨む労働者のように高圧的であると感じたからであり、その後半で「がまんしてやってください」と記したのは、更衣室の設置には時間がかかることを明らかにしようとの意図によるものであった。

4  ところで、原告は、この女子更衣室設置に関しては従前から関心を持ち、昭和五八年九月ころから被告深澤や教頭先生に設置について話をしたことがあり、これに対して被告深澤が「あんな生徒だから更衣室を作らない」と述べたことがあり、また、被告深澤が女子更衣室である会議室の鍵を持ち歩いているため更衣室を利用できなかったと言っていた女子生徒があったことや、女子更衣室についての職員会議において被告深澤が消極的であったとの噂を聞いたことから、原告は、この女子更衣室問題について被告深澤が消極的であると感じていた。

さらに、原告が生徒会長として更衣室問題について教頭らと話合いをした際にも、被告深澤から「上履き下履きの区別がつけられないお前にそんなことを言う資格がない」と説教されたこともあり、原告は、被告深澤に対しいい感じを抱いていなかった。

5  原告は、昭和六〇年一〇月三〇日の第一時限後の休憩時間中、教室内で学級日誌を見ているうちに前記論評を見付け、生徒会長としての真面目な話合いが「面白かった」と評されたことで被告深澤から揶揄されたように感じ、また、「がまんしてやってください」という表現から、同人が女子の甘受している不便な思いを真剣に受け止めていないものと感じ憤慨した。そこで、既に第二時限の授業が始まっていたが、右論評について被告深澤に抗議しようと考え、学級日誌から当該日の記載のある紙片一枚だけを抜き出して定時制職員室に赴いた。

6  原告は、職員室に被告深澤が不在であったので、同被告の机の隣席に腰を降ろし、おりから在室していた訴外山本教諭に事情を訴えていたところ、被告深澤が入ってきたので、同人に対し、日誌の紙片を示し、「深澤、これは何だ。」と大きな声で詰問した。被告深澤は、「全文を読めば文章の意味はわかるだろう。」、「ちゃんとした国語力を使えば分かるだろう。」と答え、「がまんしてやってください」と書いた真意を説明したうえ、原告に再度読んでみるように促したところ、原告は、「おまえは昔から、がまんしろ、がまんしろとばかり言って抑えつけているじゃないか。」とか「おまえは前にも会議室の鍵を持ち歩いて、女子が使えないようにしたじゃないか。」などと言い返した。

これに対し、被告深澤は、自分が会議室の使用を困難にした事実はない旨述べ、日誌を自分に返すように求めたが、原告からこれを拒絶され、日誌を渡す渡さないの言い合いをしているうちに、原告が座った姿勢のまま日誌の紙片を両手で強く握り締め腹部に抱え込むようにしたので、これを取り上げようと身を屈めて右手を伸ばしたところ、偶然被告深澤の右側頭部が原告の左側頭部のこめかみ付近にぶつかった。そして、なおも原告が日誌の紙片を手放さなかったとみるや、被告深澤はいきなり右手拳で原告の左口唇部付近を一回殴打した。

7  原告は、右殴打行為により、急性歯牙支持組織炎、上唇左側裂傷(ただし診断書では擦過傷とされている。)並びに口唇及び左下顎部の外傷(腫脹)の傷害を負い、診察及び治療のため訴外聖路加国際病院に三回通院した。なお、通院及び治療に要した費用は、原告ないし教頭が立て替え、最終的には被告深澤が負担した。

8  その後、昭和六〇年一一月七日、被告深澤は、教頭の立会いのもとで、原告に対し、起立した姿勢で「今回のことに関しては申し訳なく思っており謝罪したい、申し訳なかった。」などと述べて謝罪の意思を示した。しかし、原告は、口頭の謝罪だけでは被告深澤が自らの行為を本当に反省しているのか疑問に思った。

なお、被告深澤は、同年一一月二八日、東京都教育委員会から文書訓告の処分を受けた。

以上の事実が認められ、右認定に反する〈証拠〉は、前掲〈証拠〉に照らし、採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

三  被告深澤の責任に対する判断

1  まず、被告深澤が原告を殴打した行為(以下「本件殴打行為」という。)が暴行に当たることは明らかである。

2  被告東京都は、その賠償責任を争う理由として、本件殴打行為が原告の執拗かつ悪質な挑発によって惹起されたものであり、原告が学級日誌を破棄することにでもなれば原告と学級の他の生徒との間に不測の事態が生じる可能性が十分にあり、被告深澤はこれを避けるためにやむなく本件殴打行為に及んだものであることを主張する。

なるほど、原告は、授業時間中に職員室に赴き、乱暴な言葉使いをして被告深澤にくってかかっており、被告深澤の論評を読んで憤慨したことは理解できるにしても、原告がした抗議の態様は穏当さを欠いたものというべきである。また、被告深澤が殴打行為に及ぶ前に、原告が学級日誌の紙片を抱え込むように強く握り締めていたのは前認定のとおりであり、その時点で既に右紙片は破損しかかっていたものと推認することができる。

しかしながら、教員は生徒に懲戒を加える場合であっても体罰を加えることはできないとされている(学校教育法一一条)ことに鑑みると、教師が教育の現場において生徒に対し暴行した場合に、右暴行がやむをえないものと評価されるためには、当該生徒が人の生命・身体に現に危害を及ぼしているか又はこれを及ぼす具体的な可能性があり、かつ、当該暴行がその生命・身体に対する危難を避けるために必要であるなどのような例外的事情がある場合に限られると解すべきである。

被告深澤は、昭和六〇年一〇月一七日の体育実技の授業において日頃原告の不真面目な態度に反感を持っていた生徒三名が、理由を明らかにしないで見学をした原告に対し殴りかかろうとした事件があり、以後原告と他の生徒との間に緊張関係が続いていたので、学級日誌が破棄されることになれば彼らが黙ってはいないと考えた旨供述する。しかし、体育実技の授業中に原告と他の生徒との揉め事があった事実自体は、前掲西野証言及び原告本人尋問の結果からも認められるところであるが、同証言、同尋問の結果及び乙第三号証(学級日誌)の同日付け頁の記載を照らすと、右事件のあった時期は一〇月一七日よりもかなり前ではないかという疑問がある。そのうえ、被告深澤の指導により生徒が学級日誌に愛着を持っていたとしても、特定頁の紙片が一枚破損しただけで日誌への記入が全く不可能になるなどの取り返しのつかない事態になるものでもないことは明らかであるから、学級日誌の紙片が破棄されたことを契機として、被告深澤の供述するような新たな揉め事が起きる客観的な恐れがあったと判断することはできない。更に、被告深澤は自己の側頭部と原告の側頭部とがぶつかった後いきなり原告を殴打したものであるから、その際被告深澤が被告らの主張する不測の事態を考慮する余裕はなかったものと考えられ、むしろ被告深澤は日誌の紙片を離すまいとする原告の強情さにとっさに怒りを覚えて本件殴打行為に及んだものと推認するのが自然である。そうすると、前記被告深澤の供述に基づき右例外的事情を認めることはできない。

そして、他に右例外的事情を認めるに足りる証拠はなく、被告深澤の殴打行為がやむをえないものであるという主張は理由がない。

3  また、被告東京都は他にもその賠償責任を争う理由を挙げているが、いずれも原告の慰藉料請求を否定する事由とならない。

4  右のとおり、被告深澤は、自己が担任する学級の生徒である原告との間で職員室内において学級日誌をめぐりいさかいとなり本件殴打行為に及んだものであり、被告深澤の右行為は、職務を行なうについてした違法行為であるというベきであるから、被告東京都は、国家賠償法一条一項に基づき、被告深澤の右行為により原告の被った損害を賠償すべき義務がある。

5  なお、原告は、被告深澤の不法行為として頭突きをも問題としている。前認定のとおり、日誌の取合いの過程で原告の側頭部と被告深澤の側頭部とがぶつかったことはあるが、被告深澤が故意に頭突きをしたと認めるに足りる証拠はなく(かえって被告深澤は、故意に頭突きをしたものではないと供述しており、甲第一、第二号証の各診断書にこめかみ付近の傷の記載がない事実は、両者の側頭部の接触が軽微であったことを窺わせるものであって、右被告深澤供述の信用性を補強するものである。)右接触をもって被告深澤の不法行為とすることはできない。

三  損害

1  慰藉料

本件殴打行為に至る経過、原告の受傷の程度、その後の経緯その他諸般の事情を斟酌すると、本件殴打行為について原告を慰藉すべき金額は、二〇万円をもって相当と認める。

2  弁護士費用

弁論の全趣旨によれば、原告は本件訴訟の提起及び追行を原告訴訟代理人に委任し、その費用・報酬の支払を約束したことが認められるところ、本件事案の内容、請求認容額その他諸般の事情に照らすと、原告が弁護士費用として被告東京都に損害賠償を求めうる額は、一〇万円をもって相当と認める。

第二  被告深澤に対する請求について

公権力の行使にあたる公務員の職務行為に基づく損害については、国または公共団体が賠償の責めに任じ、職務の執行にあたった当該公務員は個人として被害者に対しその責任を負担するものではないと解するのが相当である。

被告深澤の本件不法行為は、右のとおり、公権力の行使にあたる公務員の職務行為といえるものである。したがって、被告深澤は原告に対し損害賠償責任を負担するものではなく、原告の請求は主張自体失当である。

第三  結論

以上の次第であるから、被告東京都は、原告に対し、損害賠償として金三〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である昭和六〇年一〇月三一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務があるので、原告の被告東京都に対する請求は右の限度で理由があるから認容し、その余は棄却することとし、被告深澤に対する請求は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言について同法一九六条をそれぞれ適用し、主文のとおり判決する(被告東京都は仮執行免脱宣言を求めているが、本件では、これを付するのは相当でない。)。

(裁判長裁判官 田中康久 裁判官 三代川三千代 裁判官 太田晃詳)

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